KYOKO MURAKAMI's PROFILE | |
Vocal leader of The Shiny Stockings. Executive producer of Shiny's Office Inc. Kyoko Murakami
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16歳
ベースを弾きながら歌い始めた
20歳
30代、家族とサミーディビスjr.宅に 招待され長期滞在する
次男、桂 と
40 代 Jazz Life 誌より
Swing Jornal 誌より
気がつけば、親子三代音楽一族に!
村上京子ジャズボーカル教室
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戦前にミリオンセラーの記録を残す名プレイヤーの父、(村上一徳1913~1963)の、長女として東京・目白に生まれる。 (本名・小林京子) 母の勧めで、五歳よりピアノなどいやいや習わされ、六歳の頃には、当時のラジオ放送でCMソングなど、 本人意識ないまま音楽活動開始。 四谷の雙葉小学校時代、はみ出す個性矯正され、 ひたすらおとなしく過ごすも、中学で成城学園に転校、 同校の大学のバンドのレギュラーシンガーとなる。
学生主宰のパーティの多い時代、各パーティへ出演する毎にレパートリーを増やして行く。 15才、必要があってウッドベースを練習。 プロの女性バンドより声がかかり、米軍キャンプなどのステージに 立ち始める。 渡辺プロボーカルオーディションで、この年よりボーカルで三年連続、第一、二位に入賞。 但し、タレント稼業に進む気は毛頭なく、音楽のみに進み始める。 16才、プロの女性ハワイアンバンド結成どきにベース&ボーカルとして声をかけられ、 グループ名を「パイナップルプリンセス」と命名し結成メンバーに。
このグループは米軍キャンプほか、さまざまなライブシーンで、超人気グループとなり、 小さな体にウッドベースの弾き歌いなどしつつ、同時にビッグバンドやコンボ編成のバンドにて ベース&シンガーとして数々のステージをこなす。 同時に、この時代は六大学ハワイアンバンドが大ブームの時代、 慶応カルア・アイランダース、早稲田のナレオ・ハワイアンズでは、ゲスト・ボーカルとしてツァーにも参加、 バンドシンガーのレギュラーを務めたり、大学対抗ハワイアン合戦などで、17才にしてゲスト審査員などを務める事も。 当時ハワイアン界でスターバンドであった全てのプログループでもゲスト・ボーカルを務め、 最年少のボーカリストとしておっかけファンが着いて回るほどのアイドル的存在になっていく。 両親には、始めから音楽活動を反対されており、説得のための手法として、 洗足学園高校音楽科第一期生として編入転校。 それまでに同校になかったコントラバス科発足し、たった一人のコントラバス科生徒となる。 クラシックの基本及びコントラバスの勉強をするかたわら、合間にライブ活動を続ける。 ボーカルでのライブ他、スタジオミュージシャンとしてパーカッション、又、シンガーとしてCM収録などなどのシーンでも活動。
19才 まで両親をだましだまし音楽活動続けるも、 父危篤の報をビッグバンドで歌っている最中に聞き、 父からの言葉、「音楽を続けるのなら親の死に目にも会えない覚悟で」の言葉を胸に、 最終ステージまで歌い続け翌朝駆けつけた時には死に目に間に合わず。 以来、 母から一切音楽とは縁を切る様に言い渡される。
父の死後、決定していたレコーディングもキャンセルして、 泣く泣く音楽シーンをあきらめたつもりで、 英語の面接で貿易会社の試験を受けてなぜか合格。 ヒルトンホテル、ホテルオークラ、などのShopに務め、 初めて音楽以外の仕事を体験。 パレスホテルではたった一人で店の全てをまかされる迄になる。 時は東京オリンピック開催の年、 ドルは\360時代、90%のお客様は外国人。 朝から晩まで観光客相手に 中学英語程度で一人で対応。 これが唯一の音楽以外の仕事の経験となるも、仕事に慣れるにつれ、音楽への熱い思い入れが再沸騰。
20才 の時には既に母に内緒のまま、昼は社員、夜はシンガー、の二つの顔を持つ事になる。 伝統あるジャズコーラスグループ、「ダイヤモンドシスターズ」に欠員が出て誘いがかかり、 ステージと練習の繰り返しを続けた後、 ツァーも多いグループで両立が無理となり退社、 専業シンガーに戻る。 この時代はまだ、米軍キャンプなどの仕事も多く、北は青森三沢基地から南は九州佐世保基地まで、 米軍の将校クラブのツァーなど、米軍基地でも人気者だった。 24才までダイヤモンドシスターズのレギュラーメンバーとして、華やかなショウ全盛時代の米軍キャンプ、 そして豪華ナイトクラブ「コパカバーナ」 「ラテンクォーター」「月世界」などなどのショウゲスト、数々のCMソング収録などをこなす。 テレビアニメの初代の「魔法使いサリー」などの録音も残っている。
レギュラーを務めて四年目に、伝統あるこのコーラスグループは リーダーの都合で解散。 20年続いた歴史あるグループだった。 レコード会社より誘いも引く手あまたのお年頃、レコーディングすればタレント化しなければならず、 それは性に合わない事と決め、各バンドのバンドシンガーとして、又、作詞家として、 各方面の歌手のための作詞で、レコードも沢山残す。 25才の頃からレコード会社の新人育成なども頼まれ、歌と作詞のかたわら歌唱指導のみならず、 歌手のトータルコーディネーターとしての依頼多く、各分野のアーチスト育成も仕事のうちとなる。 自らも歌唱賞、作詞賞など数回受賞。
27才、この時代は主にサパークラブ・ホテル・ラウンジ・ジャズクラブ・ディスコ・など、どこの高級店にも上質のバンドが毎晩 演奏していた時代。 日々数カ所をかけもちで飛び回り歌う。 東京に最初に出来たジャズ専門学校「アン・コンテンポラリー・ジャズ・ミュージック」の、 ジャズボーカル科講師に、ミュージシャンの推薦で抜擢される。 六本木校、京都校、札幌校、全ての学校にて、 ジャズボーカルの指導をその後9年間続けつつ、口コミで自然に集った弟子達との 音楽塾「K.M Vocal Family」設立。
28才大難産にて長男「伊織」出産。 親子共々呼吸停止、仮死状態に陥り、蘇生するも、 「一生、車椅子になるかも」と医者よりの宣告あり数ヶ月の辛いリハビリの後、車椅子、松葉杖、と回復して来た時、 回りの反対をよそにリハビリのつもりでステージへ復帰。 歌い始めると、体はどんどん回復に向かい、歌いつつの子育て両立。 この時代は主にソウルバンドのリードボーカル、ブラジルバンドでボサノバなどを歌う機会が多く、 一日で四カ所のかけ持ちなどしながら各バンドのバンドシンガーを務める。
次第にジャズクラブ、ライブハウス、などが増えて行った時代。 バードランド、サテンドール、アフターシックス、アルフィー、ミスティ、スターダスト、など各店が六本木あたりに集合し、 それらの店のゲストボーカルとしてあちこちに出演。この頃よりボーカルマイクが急激に進歩、上質かつ繊細、 きめ細かい音楽の資質が求められる様になる。 各プレイヤーを集めたコンサートなども多数出演。 30代、世良譲トリオ、小林洋トリオほかピアノトリオを主とした活動。 ジャズクラブ、ホテルラウンジなどを根拠点に各地に出没したライブハウスにも出演し始めると共に、 バンドが出演している豪華ナイトクラブは次第に形を変え、消えて行く時代に入る。 反対にボーカリスト希望者は増えて行き、新人育成、自己主宰のK.Mボーカルファミリーの定期自主コンサートなど重ねる。
次男、桂誕生。 定期自主コンサートのために生徒を率いコーラスグループを結成。 「ザ・シャイニー・ストッキングス」と命名。 練習兼ねて銀座「サテンドール」出演日にメンバー率いて初お披露目。 その場でグループとしての出演依頼が来る。ビクターにて即、テストレコーディングなど。 40代、ザ・シャイニーストッキングス二度目のライブ、六本木「アルフィー」で客席で偶然聞いたビクター部長プロヂューサーに、 「すぐレコーディングしよう!」と、口説かれ結果は、昼レコーディング活動、夜ライブ、夜中トラックダウン、 そのまま朝帰り次男桂の弁当作りと幼稚園への送迎、その合間の練習と生徒へのレッスンetc…などと更に過密な生活が始まる。
VICTOR INVITATIONより発売になったレコードは発売一週間でジャズ・ジャンルのレコード内で 米ビッグアーチストと並んでトップチャートに踊り出る。 そのキャッチフレーズは「ターンテーブルの上のモンロー達」 各レコード店のウィンドウ一杯にジャケットが飾られている中、 「ボーカリストは二児の母」などの記事が女性誌にも多数露出。 ソフトでスウィンギー、粋なグループとしてジャズライブハウス一流各店のレギュラー出演者として、 各放送、ジャズコンサートなどでひっぱりだこのグループとなる。
衣装デザインから作成、振り付け動きなどに至るまで全て村上のアィディアで、 音と共にお洒落なグループとして、スウィングジャーナル誌批評家投票第一位、 コーラスグループ人気投票、女性グループとしては十年以上第一位、 ツムラ・ジャズボーカル大賞奨励賞受賞ほか、高い評価を受ける。 50代、ビクターミュージックカレッジ・ジャズ・ボーカル科スーパーバイザーを三年間務める。 沢山のボーカリストを育成、各界送り出しつつ、ライブ活動を続けザ・シャイニー・ストッキングスは結成25周年を越えた。 女性コーラスグループ一代目リーダーとしての継続年数は最長記録達成。
次男、小林桂は14才の頃より同グループに強引かつ勝手に参加、コンサートで小粋なダンスなどを見せていたが、 次第にボイスでも参加、16才にはレギュラードラムの座を勝手に確保。 17才から毎年リードアルバムを発売後、20才でメジャーデビュー。 次男、桂より、自分の音楽をよく認識している、と言う理由でパーソナル マネージャー役を任命される。 次男・小林 桂・ボーカリスト 夫・小林 洋 アレンジャー・ピアニスト 桂は自らの活動の最多忙の合間を縫って、現在もレギュラードラマーの位置を他に譲らず、 同グループでは家族共に活動中。 現在、ザ・シャイニーストッキングスの活動、小林桂パーソナルマネージャー、 K.Mボーカルファミリー主宰及び、新人育成、指導など、ステージへ上げる迄の作業など、 音楽シーンの表から裏へ移動中。 Top Pageへもどる Kyoko Private Page copyright: Shiny's Office Inc: K.Murakami February,2004 |